旧 八月   大 廿参日   下弦

朝からずいぶん良い天気でした
北海道では、今年初めて霜が下りたそうで、土地の差を感じますねー
夜になると冷えるんは、ここら辺りも同じですが、まだまだ暖房は要らんようです

子供相手の仕事から帰ってきて、稽古をしてたんですが、三味線が鳴るんが嬉しい
つい、三味線に手が伸びてしまって、箏の稽古が滞りがちになってしまう
いかん・・・とは思いつつ、ラクなほうへ流れてしまうんですねー

こないだ、お茶の稽古で思ったんですが、やはりラクなほうには、流れていく
よっぽど気を付けてやってても、我流が出てしまう
型に嵌るんは窮屈なもんなんで、つい外れていってしまうようです

これは、自分の我慢が出てて、でこぼこしてるせいなんですねー
型にきちんと嵌ることが出来れば、窮屈な感じは無い、わけですが
我慢を通そうとするから、型の存在が邪魔になってくるんですわ

三味線や箏、小弓なんかでも同じことで、流儀がある以上は型があるわけです
工夫と、我流は、よく似通って見えるんですが、本質的に違うもの
ここを取り違えてしまうと、何処に出しても通用しなくなってしまいます

で、さらに難しいんは、かといってうわべの形だけを採りに行くと、痛い目にあう
見た目の形を採りに行っても、それは猿真似でしかないんで、何処まで行っても真似です
だいたい、癖は採れても、良いところはなかなか採れません・・・

客観的に自分を見つめてみるしかないんですが、この作業がまた難物
大方の人は、悪くなろうとして努力してるわけでは無いんで、ここが落とし穴ですねー
方向性を、つい見誤ってしまうんが多い

こないだは、茶碗の持ちかたから、棗の清めかたを、細部にわたって言ってきたんですが
基本の動作が、流儀の動きにならないんですよねー
点前の手順ばかりに気を取られてると、往々にしてここに落ちいってしまいます

曲の稽古でも同じで、手数ばかりを追いかけてると、同じ症状が出てくる
確かに弾いてはいるんですが、それは三味線や箏、小弓などの楽器を鳴らしてるだけ
楽器を鳴らしてはいるけど、曲を弾いては無い、ということです

確かに手数は合ってるんで、流儀の曲を弾いてる、点前をしてる、と言えばそうなんですが
それならば、録画や録音から拾っても、流儀の伝承をしてることになります
そういった類いのもんではないんで、必ず師伝が必要なわけです

伝承の芸で、師匠と呼ばれる人にヘンコが多いんは、ここらへんの消息でしょうか、ねー
その流れの中に居る心ある人は、伝習者であると同時に、伝承者でもあります
習う人、であると同時に、伝えて行く人、でもあるわけですねー

習ったことを、自分の中だけに納めてしまって、伝えんというんでは、そこで終わりです
伝えないかん、だからこそ、教わる時に真剣に教わって、寸分違わず覚えていく
そこには、決して我慢があってはならん、だはず、の物です

教えるほうには責任が付き纏いますが、習うほうにも責任はあるもんです

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